「藤枝おんぱく」【No.15】「花蔵の乱」探訪ツアーレポート その5 いよいよ敗走! [「花蔵の乱」探訪ツアー2014]
2014年5/24(土)に行われた「藤枝おんぱく」、
【No.15】「武将・今川義元と行く『花蔵の乱』探訪ツアー」レポート その5です。
心強き助っ人・地元の村人に届けてもらった「兵糧2」が、こちら。
藤枝に伝わる「瀬戸の染飯(せとのそめいい)」です。
特別に唐揚げも入れてもらいました。
この梅干しが美味しいんですよ!
この掛け紙に描かれているのは、「喜久屋」さんに伝わる江戸時代の版木から、
写したもの。
竹の皮に、この掛け紙のお弁当。当時が忍ばれます。
浮世絵にも描かれていたそうです。
食後、旗印にて戯れる兄弟。
弟、義元は好戦的!
義元「恵探の兄貴、もたもたしていると、ここにて切り捨てるぞ!」などとのたまい、
恵探「嫌だ〜!」(一同、ずるっ!?)
ってな、もう一つの「ヨシモト」を思い出させるようなリアクションをみんなでしつつ、
一体感を増すような・・・、平成「恵探」殿にしか、できないような人心掌握術!???
義元はこの日、ヒール的な存在を確立!?
それはそれで、平成「義元」にしかできない形かも?
さらにそれは、藤枝市にでしかできない演出であろう・・・。
さて、おなかもいっぱいになり、休憩も済んだところで、午後の部出発です。
歩き始めてすぐに気づいたのは、刈られた草たち。
この直前に、毎日のように地元の親父たちが山に入り、
我々ツアー参加者が歩きやすいように、道の整備をしてくれていました。
ありがたいなあ〜。
「花蔵の乱」では、追われて逃げていくのが「玄広恵探」なので、
先頭を切るのは、恵探(写真・奥)です。
この足下の木の階段。
これも親父たちが、間伐材を利用して作ってくれたものです。
他にも、右左に歩数に合うように、スコップで掘って、作ってくれた階段があり、
きつい山道のその階段を山昇りながら、親父たちの優しい気持ちが体で感じられると、
じ〜んと来てしまいます。
「花倉城」から後は、下る一方かと思われがちなのですが、
意外にも急な下り坂と急な上り坂が繰り返される難所続き。
このように、かなりな斜度があります。
こういう中での幟は、目立ちますね。
敵か味方かを識別するのには大変有効です。
ようやく、「烏帽子形山」と「中山」方面への分岐点に到着しました。
ここで、健脚な方々は、「烏帽子形山」の山頂へ行くことに。
ちょっとお疲れな方々は、ここでちょっと休憩。
そんなとき、ここにも、素晴らしい力作が!?
竹で造られたベンチ、というかベットにもなりそう!
親父たちの作品に、感動!
さらに、驚いたのがこちら。
木の名前を書いたネームプレート!
これなら、どれが何の木かすぐにわかります。
さて、そうこうしているうちに、山頂行き組も戻り合流。
さあ、「玄広恵探」敗走ルート、いよいよ下りの連続です。
ここからは、枯れた川底を歩くような、岩がごろごろあるところを降ります。
なので、途中の写真が撮ってなかったです。あしからず。
岩ごろごろの次は、竹林。
そこを抜けて、瀬戸谷の紺屋村の方へ降りてきました。
ここまでは、紺屋村の方から軽トラで来ることができます。
この先は、舗装された農道になりますが、この道がまたまた曲者。
小石があったり、地下水が染み出ていて濡れていたり、落ち葉があったり、
疲れてきた足腰には要注意!滑りやすいです。
本来ならば、恵探と少人数の家来たちは、
「葉梨城(花倉城)」から、命からがら、倒けつ転びつ(こけつまろびつ)、
追いつめられてきた訳ですから・・・。
途中の険しい道で、
「こういうところを追われて、急いで逃げていく訳でしょ?
多分、あの重そうな甲冑を着て・・・、足下はわらじだよね?
たまんないよね〜。」
などと言いながら、玄広恵探を先頭に、なんとか降りてきました。
当時なら、恵探は後から追ってくる義元軍を待ったりしないですが、
平成のこのツアーは、ところどころで合流を待ちます。
おお、しんがりを務めるのは、今川義元公!
お茶の緑は本当に美しいですね。
県外の遠くから見えた方には、茶畑が珍しいととても喜んでくださいました。
「殿!どのようになされますか?」
石上くんと曽根くんは、すっかり恵探殿の家来になられた模様。
「花蔵の乱」で追いつめられていく「玄広恵探」に付いて、守り立てます。
「静岡古城研究会」の平井さんから、眼下に広がる瀬戸谷の風景に付いて説明を聞きます。
お茶をかっていたご夫婦も、説明が聞きやすいように、
茶刈り機のスイッチを止めていてくださいました。
ありがとうございます。
さあ、いよいよ目指すは「高山寺」!
いざ出陣!
【No.15】「武将・今川義元と行く『花蔵の乱』探訪ツアー」レポート その5です。
心強き助っ人・地元の村人に届けてもらった「兵糧2」が、こちら。
藤枝に伝わる「瀬戸の染飯(せとのそめいい)」です。
特別に唐揚げも入れてもらいました。
この梅干しが美味しいんですよ!
この掛け紙に描かれているのは、「喜久屋」さんに伝わる江戸時代の版木から、
写したもの。
竹の皮に、この掛け紙のお弁当。当時が忍ばれます。
浮世絵にも描かれていたそうです。
食後、旗印にて戯れる兄弟。
弟、義元は好戦的!
義元「恵探の兄貴、もたもたしていると、ここにて切り捨てるぞ!」などとのたまい、
恵探「嫌だ〜!」(一同、ずるっ!?)
ってな、もう一つの「ヨシモト」を思い出させるようなリアクションをみんなでしつつ、
一体感を増すような・・・、平成「恵探」殿にしか、できないような人心掌握術!???
義元はこの日、ヒール的な存在を確立!?
それはそれで、平成「義元」にしかできない形かも?
さらにそれは、藤枝市にでしかできない演出であろう・・・。
さて、おなかもいっぱいになり、休憩も済んだところで、午後の部出発です。
歩き始めてすぐに気づいたのは、刈られた草たち。
この直前に、毎日のように地元の親父たちが山に入り、
我々ツアー参加者が歩きやすいように、道の整備をしてくれていました。
ありがたいなあ〜。
「花蔵の乱」では、追われて逃げていくのが「玄広恵探」なので、
先頭を切るのは、恵探(写真・奥)です。
この足下の木の階段。
これも親父たちが、間伐材を利用して作ってくれたものです。
他にも、右左に歩数に合うように、スコップで掘って、作ってくれた階段があり、
きつい山道のその階段を山昇りながら、親父たちの優しい気持ちが体で感じられると、
じ〜んと来てしまいます。
「花倉城」から後は、下る一方かと思われがちなのですが、
意外にも急な下り坂と急な上り坂が繰り返される難所続き。
このように、かなりな斜度があります。
こういう中での幟は、目立ちますね。
敵か味方かを識別するのには大変有効です。
ようやく、「烏帽子形山」と「中山」方面への分岐点に到着しました。
ここで、健脚な方々は、「烏帽子形山」の山頂へ行くことに。
ちょっとお疲れな方々は、ここでちょっと休憩。
そんなとき、ここにも、素晴らしい力作が!?
竹で造られたベンチ、というかベットにもなりそう!
親父たちの作品に、感動!
さらに、驚いたのがこちら。
木の名前を書いたネームプレート!
これなら、どれが何の木かすぐにわかります。
さて、そうこうしているうちに、山頂行き組も戻り合流。
さあ、「玄広恵探」敗走ルート、いよいよ下りの連続です。
ここからは、枯れた川底を歩くような、岩がごろごろあるところを降ります。
なので、途中の写真が撮ってなかったです。あしからず。
岩ごろごろの次は、竹林。
そこを抜けて、瀬戸谷の紺屋村の方へ降りてきました。
ここまでは、紺屋村の方から軽トラで来ることができます。
この先は、舗装された農道になりますが、この道がまたまた曲者。
小石があったり、地下水が染み出ていて濡れていたり、落ち葉があったり、
疲れてきた足腰には要注意!滑りやすいです。
本来ならば、恵探と少人数の家来たちは、
「葉梨城(花倉城)」から、命からがら、倒けつ転びつ(こけつまろびつ)、
追いつめられてきた訳ですから・・・。
途中の険しい道で、
「こういうところを追われて、急いで逃げていく訳でしょ?
多分、あの重そうな甲冑を着て・・・、足下はわらじだよね?
たまんないよね〜。」
などと言いながら、玄広恵探を先頭に、なんとか降りてきました。
当時なら、恵探は後から追ってくる義元軍を待ったりしないですが、
平成のこのツアーは、ところどころで合流を待ちます。
おお、しんがりを務めるのは、今川義元公!
お茶の緑は本当に美しいですね。
県外の遠くから見えた方には、茶畑が珍しいととても喜んでくださいました。
「殿!どのようになされますか?」
石上くんと曽根くんは、すっかり恵探殿の家来になられた模様。
「花蔵の乱」で追いつめられていく「玄広恵探」に付いて、守り立てます。
「静岡古城研究会」の平井さんから、眼下に広がる瀬戸谷の風景に付いて説明を聞きます。
お茶をかっていたご夫婦も、説明が聞きやすいように、
茶刈り機のスイッチを止めていてくださいました。
ありがとうございます。
さあ、いよいよ目指すは「高山寺」!
いざ出陣!
2014-05-31 16:41
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