「藤枝おんぱく2015」No.53「石上亮と行く 家康公ツアー」残席わずかです! [『家康公ツアー2015』]
2015年5/2(土)に開催予定の、「藤枝おんぱく2015」No.53の
「石上亮と行く 家康公ツアー 『藤枝桐たんす会席弁当』付き」の、
現在のお申し込み数は、お陰さまで、24名。残席は、後1名です。
写真( kazuphotos)は、「田中城下屋敷跡」の「本丸櫓(現存・移築)」です。
田中城は、今川氏の時代には「徳一色城」と呼ばれ、
土豪・一色左衛門尉信茂の居館から発展したと考えられています。
桶狭間の戦い(1560年)で今川義元が亡くなると、
甲斐の武田信玄が駿河侵攻を開始し、元亀元年(1570年)手中にし、
三日月堀などを作らせ、城の守りを堅固にします。
名前も「田中城」と呼ばれ、遠江に対する戦略的な拠点として位置づけられました。
信玄の死後、徳川家康により度重なる攻撃を受け、
天正10年(1582年)ついに開城します。
江戸時代には田中藩が置かれ、駿府の西の守りとして、譜代大名が治めました。
「田中城」は4つの曲輪(区画)と4つの掘が同心円状に配置されていて、
その形状から別名「亀城」「亀甲城」と呼ばれていました。
これは、全国的にも珍しいようで、去る2/24に行われた、
講演会「徳川家康と東海道の城 〜諏訪原城&田中城〜」でも、
日本の城郭史研究でも縄張図の典型として、
「田中城」の絵図や復元図が事例に挙がる
と語られていました。
本丸は四角で、二の丸から四の丸までが円形になっています。
「田中城跡 散策ガイド」は田中城跡を歩く時に、便利です。
ツアー当日にお配りします。
「田中城保勝会」のボランティアガイドの方に
要所要所の解説をしていただく予定です。
春風亭昇太さんに言わせると、
「田中城」は、今川・武田・徳川の三大メジャー戦国大名が、
手を入れているお城というのは、全国でも珍しい!と。
藤枝市民は、全国に向けてもっと自慢してもいいと!!
さらに、徳川家康公の死因だったのでは?とささやかれる
「鯛の天ぷら」を食べた城として、あまりにも有名ですよね?
現代では、別の説が有力のようですが…。
その「鯛の天ぷら」も食べられます。
「小杉苑」さんのお料理は、大丈夫ですよ!
このツアーがお気に召していただけた方は、お申し込みはお早めに!
お申し込みは、こちらから。
スタッフ一同、お待ち申し上げております。
よろしくお願いいたします。
「石上亮と行く 家康公ツアー 『藤枝桐たんす会席弁当』付き」の、
現在のお申し込み数は、お陰さまで、24名。残席は、後1名です。
写真( kazuphotos)は、「田中城下屋敷跡」の「本丸櫓(現存・移築)」です。
田中城は、今川氏の時代には「徳一色城」と呼ばれ、
土豪・一色左衛門尉信茂の居館から発展したと考えられています。
桶狭間の戦い(1560年)で今川義元が亡くなると、
甲斐の武田信玄が駿河侵攻を開始し、元亀元年(1570年)手中にし、
三日月堀などを作らせ、城の守りを堅固にします。
名前も「田中城」と呼ばれ、遠江に対する戦略的な拠点として位置づけられました。
信玄の死後、徳川家康により度重なる攻撃を受け、
天正10年(1582年)ついに開城します。
江戸時代には田中藩が置かれ、駿府の西の守りとして、譜代大名が治めました。
「田中城」は4つの曲輪(区画)と4つの掘が同心円状に配置されていて、
その形状から別名「亀城」「亀甲城」と呼ばれていました。
これは、全国的にも珍しいようで、去る2/24に行われた、
講演会「徳川家康と東海道の城 〜諏訪原城&田中城〜」でも、
日本の城郭史研究でも縄張図の典型として、
「田中城」の絵図や復元図が事例に挙がる
と語られていました。
本丸は四角で、二の丸から四の丸までが円形になっています。
「田中城跡 散策ガイド」は田中城跡を歩く時に、便利です。
ツアー当日にお配りします。
「田中城保勝会」のボランティアガイドの方に
要所要所の解説をしていただく予定です。
春風亭昇太さんに言わせると、
「田中城」は、今川・武田・徳川の三大メジャー戦国大名が、
手を入れているお城というのは、全国でも珍しい!と。
藤枝市民は、全国に向けてもっと自慢してもいいと!!
さらに、徳川家康公の死因だったのでは?とささやかれる
「鯛の天ぷら」を食べた城として、あまりにも有名ですよね?
現代では、別の説が有力のようですが…。
その「鯛の天ぷら」も食べられます。
「小杉苑」さんのお料理は、大丈夫ですよ!
このツアーがお気に召していただけた方は、お申し込みはお早めに!
お申し込みは、こちらから。
スタッフ一同、お待ち申し上げております。
よろしくお願いいたします。
2015-04-21 00:44
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